質問の重要性

知識とは感覚の表現です。それは観念の集合体と言い換えても構いません。

絶対的な普遍的表現で書き記すことが重要であるのは間違いないですが、観念という目に見えないものを目に見える言葉であらわすとき、そこには知識提供者の力量という限界が立ちはだかります。
そこを突破する努力を怠る者はいないと考えますが、知識受容者からも歩み寄って頂きたいのです。

例えば、良い香りであるという観念を言葉で伝えるとき、下記のように語ったとする。

『魚を焼いているような、おいしそうな香ばしい匂い』

これをただ漠然ともっと詳細に解説して欲しいとだけ言われた場合、

魚の事、魚を焼いている事、なぜ魚を焼いているのか、おいしいそうという意味、香ばしいとは何か、
といった複数の対象の、どれを解説したものか、欲求の意図するところがわからないのです。
これは、それぞれが独立した観念の集まりですが、上記のような組み合わせが最良と考えて表現しています。
それを個別に分解して、それぞれ別の説明を加えていってもよいのですが、実のところ上記の組み合わせがよくわかるだろう、と考えて表現しているので、他に言い換える基準が不明なのです。
例えば、それを肉や木の実にした方がよいか、花と甘さを絡めて組み替えたほうがわかりやすいのか、といったことです。
そこを無視して手当たり次第、説明を加えていくと、無駄な言い回しで同じ事を語らねばなりません。
同じことを違う形で表現しすぎると、それは混乱のもとになり、主題がぼやけます。
良い香りであるという観念を大幅に歪んだ形で伝えかねない。

ですから、疑問という形で、どこがどのようにわからないかというポイントと疑問者がどのように解釈したかを把握することによって、そこに対して無駄なく新たな説明が加えることができ、歪みを最小限に抑えられるわけです。

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