バックマスキング

いわゆるサブリミナルですね。

潜在意識に直接的に影響を与える技術で、バックワードマスキングとも表現されています。この技術は映像と音響で効果が倍増します。

潜在意識に影響を与える技術なので顕在意識を主体として生活する我々には気付き難い効果を持ちます。知らないうちに影響を受けている、といったものです。

技術の効果や影響の真偽は定かではないですが、理論としてこういうモノがあると知っていることは無駄にならないでしょう。

そして、その現象がどの方向性で効果を狙っているかを知ると、その効果の善悪に関わらず意識への影響を受容しつつ選択できる可能性がある、と僕は考えています。

とはいえ、わかっていながら地雷原に飛び込むのは懸命な判断とは言い難く。精神力は有意義な学びをしっかりと取捨選択する方向に使用した方がよいかと考えます。

広告

コールドリーディング

会話技法のひとつで、いかにも相手の心を読んでいるかどこかから啓示を受けているかのような錯覚を与える。

実際には、外観、挙動、文体、言動などを観察して、その結果から幅を持たせた言葉を選んで会話をしている。

回避方法は簡単。

これは勝手に自分でそう思い込んでしまう反応を利用しているので、そこは受容して、それを認めた上で、疑問点を質問していって具体的な説明を求めればよいです。

そうすれば、コールドリーディングだろうが何だろうが自分にとって有益な情報源に成りえます。

感情と共に歩む

毎日にように様々な感情がその身を駆け巡ります。

喜怒哀楽。ときには激情といえるような激しいものにもなります。
制御できない感情は、正常な判断力を喪失させるので、行動にも間違いが起きやすくなります。

これら感情は排除しようとしても排除できるものではありません。
感情は自分の一部でありますから、自分で自分を消すことはできないわけです。
ですから、この解決方法は、受け入れるしかありません。
自分は何らかの物事を受けて反応し感情が湧き上がった、と。
これは自分の内から湧き上がる性質なので抗うことは無意味です。
湧き上がる内容に善悪の性質はあるかもしれませんが、湧き上がること自体に善悪の性質は関係ありません。
ただ、湧き上がる。なので、湧き上がるということを認めるしか方法はないと考えます。

認めた後は、それが人の道に沿っているかを自分で判断し、その判断に従えばよいだけです。
沿っていれば受け入れて、沿っていなければ受け入れない。
そして、疑問があれば質問する、です。

二元性の調和

いま我々に必要なのは意思疎通を図ることですが、意思疎通のために会話を行うと争いが引き起こされる場合があります。

それは、意識・無意識に関係なく『争い』が人の本質だと語られてきた弊害です。さらに、個人の尊重という観念が歪められ、それの解決方法が、無関心、もしくは排除することであると教え込まれています。

価値観とは、自分の中にあるものです。それは善と言われるものであったり、悪と言われるものであったり。善と悪がブレンドされて、その位置が流動的であったり。固定化されることはありませんが、とにかく価値観は人により様々です。

善は悪が嫌いです。本質的に受け付けられない。悪は善が嫌いです。これも本質的に無理な話です。しかし、善は悪なしではありえず、悪は善なしではありえません。お互いがお互いを補完して、始めて成り立つ観念です。

どのような物事であっても、それを極めれば極めるほど、真実というのは明らかになってきます。方向性に関係なく善だろうと悪だろうと、極めれば真実が見えてきます。

悪を排除すれば、善は成り立ちません。
善を排除すれば、悪は成り立ちません。
善悪は共生しなければなりません。

本質的に違うものが共生を目指す場合、己が信じるものとは違う価値基準が必要です。それに『普遍的な根拠をもととする観念』と呼称を与えます。

『普遍的な根拠をもととする観念』を明らかに並べていくことによって、それを自分自身が理解することによって、気付くのです。

これは一見不可能のように感じますが、善悪の両方を持っている『人』は、すでに自分の中で共生を実現させています。

しかし、両方を持っている人同士は、まだ共生を実現できていません。我々が目指すべき課題はここです。

自分の問題解決方法を分析することにより、つまり内面を見つめることにより、現実という外部問題の解決への糸口が、概念として見つかるかもしれません。

意思疎通は、必ずしも『実際に会う』という行為をしなくても実現できるはずです。

意思疎通は、自分と相手が何らかのルールに従って明確になっていればよいだけです。

天変地異の考察

しばしば予言を行う者がいます。それは、この世界が進む可能性をイメージとしてみることが出来る能力を持った人です。わかるのはイメージとしてですから、その表現方法や度合いは預言者の表現力に依存します。

ときには恐ろしく正確な予言を行う者もいて、その正確さゆえに、そのあまりの恐ろしさゆえに、その知っているという責任に耐え切れず、情報公開という道を取ってしまいます。

しかし、その予言がいくら正確であっても、いや、正確であればあるほど、それを回避することは困難であるのです。

宇宙のすべての存在は根源的にひとつであるという考えが根底にあると仮定します。そうすると、この世の出来事すべては、宇宙の意志ということになります。

つまり、世界的な天変地異が起きるからといって、それを回避する、生き残るために何かに執着する、というのはまったく意味がないことに気付きます。

そして、それが来るからといって、絶望を感じる必要はありません。我々は根源的にひとつですから、本来の意味で、その意志は我々を傷つけるのが目的ではありません。何の意味もなく自分で自分を傷つけるようなことはしません。宇宙にとって必要だと思われることが、この世界で起こっているだけです。

ですから我々に必要なことは、正確な予言を熱望するのではなく、何が起こっても宇宙の意志であるという考えをもち、人の道を忘れず、日々の生活を営むことです。

死に関する考察

精神的なもの、死にまつわる心理についての考察、物理的な死そのものについての考察、死ぬ瞬間、様々あるが、唯一いえることは、現状において、生きているうちは、誰もそれを証明できないことだ。

このような体験をした、このような記録があった。しかし、それらは特定の個人が体験したことであって、

いつでも誰もが体験できるものではなく、死後の世界を、生きている者が論じても、誰もが納得する証拠を示すことが出来ない。普遍的に証明が出来ない知識を論じていったいどのような意味があるのだろう。

死は罪かという問いかけがある。極めて一般的な話題で、そして、極めて難しい問題だ。

まず、人の死について考える。死とは何か。

死というものを人生の終わりであるものと定義する。ということは、それを確認するためには生を終わらせるしかない。
生を終わらせる事が可能なのはただ一度きりだ。そして困ったことに、一般的に、死を迎えると、生では当たり前の会話というものが成り立たない。情報を得るために死を選択すると、欲しい情報が提供できなくなる。

論理的矛盾。

自殺とは自ら命を絶つことで、それも死だ。これは自分を痛めつけたり、暴飲暴食などで物理的・精神的に自分を死に追いやることも、自殺に分類してもよいかもしれない。他人の命を奪うことも死に繋がる。

考察の方向性を変える。

宇宙のすべての存在は根源的にひとつであるという考えが根底にあると仮定します。

宇宙にとって必要だと思われることが、この世界で起こっている。そして、そのためにすべての存在が役割を担っている。

万が一、その役割が果たされる前に死を迎えたとしたら、それこそ死の罪というものではないだろうか。自分の役割は自分でしか気付くことができない。

自らの役割を果たす前に自ら放棄すること、他人の役割を果たさせないまま放棄させること、これらは同義だ。

我々に求められていることは、自分にしか出来ない役割を見つけること。それを揺ぎ無い信念と努力で成し遂げること。

それを成し遂げられたとき、あなたの生は結実し、宇宙のすべての存在と根源的にひとつになる。

貨幣制度の考察

地上で起こっている数々の問題は、政治・経済・教育など、その性質が多岐に渡っています。地球で暮らす多様な人々の日常から発生する事柄ですから、多様性を持つのは当然といえます。世界ではそういった数々の問題提起がなされていて、それらに対して識者が論じています。そして、度々出てくる問題の中で、格差社会が話題とならない日はありません。それらに対しては、劣等感や選民意識、経済に関わる物事などが原因として挙げられることが多いようです。その中のひとつ、経済は現在の日常に欠かすことの出来ない要素です。そしてその経済の中でもっとも知られている要素は、言うまでもなく貨幣制度だと考えられます。

僕は専門家ではありませんので、貨幣制度に関しての本質を語ることは出来ません。僕の力量では、貨幣制度を語りつくせる表現を持ち合わせておりません。しかし、貨幣制度には数々の問題があり、多くの専門家がその問題を解決しようと努力をしていますが、いまのところ、その問題を根本的に解決できていないことは知っています。

そして、いま、その貨幣制度は、破綻を迎えようとさえみえます。もう破綻しているのかもしれませんが。

そこまでしてなぜ貨幣制度にしがみ付かなければいけないのでしょうか。いっそのこと手放してしまって、一から経済というものを考え直せばよいだけではないのでしょうか。

貨幣制度を一気に無くすと世界経済が混乱するため、それをすぐには無くせないという理論があります。その代替案として、徐々にその利用を減らしていって影響を少なくする。逆に、極限まで飽和させてしまって湯水の如く使えるようにする。といった理論が生み出されていきました。でも、どれほど貨幣制度を解決へと導く案が出ても、それが採用されることがありません。もうそんな小細工などせずに混乱を起こるがままに一気に無くそうという動きも出てきます。しかし、経済の根幹を成すといってよい貨幣制度を取り払った場合の社会的混乱の懸念に戻り、議論は永久に循環し、終わることはありません。

なぜこのような堂々巡りになるのでしょうか。本当に貨幣制度というものが原因なのでしょうか。本当に格差社会が問題なのでしょうか。この無限連鎖の原因は一体どこにあるのでしょうか。

原因と結果の関係から言えば、格差社会も貨幣制度も問題ではなく、なぜ社会的混乱が起きるのが問題なのではないでしょうか。そして、我々はその混乱に対しての解決策を論じ合わなければならないのではないでしょうか。

しかし、その社会的混乱に関しての議論はほとんど行われず、いまだに経済と貨幣制度をベースとした議論が永遠と続いています。終わり無き議論です。

社会的混乱とは何でしょう。社会の要素とは何でしょう。社会は家族の繋がりであり、家族は個人の繋がりです。

突き詰めれば、我々が気付きさえすれば、すべての問題は解決するのです。