感情と共に歩む

毎日にように様々な感情がその身を駆け巡ります。

喜怒哀楽。ときには激情といえるような激しいものにもなります。
制御できない感情は、正常な判断力を喪失させるので、行動にも間違いが起きやすくなります。

これら感情は排除しようとしても排除できるものではありません。
感情は自分の一部でありますから、自分で自分を消すことはできないわけです。
ですから、この解決方法は、受け入れるしかありません。
自分は何らかの物事を受けて反応し感情が湧き上がった、と。
これは自分の内から湧き上がる性質なので抗うことは無意味です。
湧き上がる内容に善悪の性質はあるかもしれませんが、湧き上がること自体に善悪の性質は関係ありません。
ただ、湧き上がる。なので、湧き上がるということを認めるしか方法はないと考えます。

認めた後は、それが人の道に沿っているかを自分で判断し、その判断に従えばよいだけです。
沿っていれば受け入れて、沿っていなければ受け入れない。
そして、疑問があれば質問する、です。

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二元性の調和

いま我々に必要なのは意思疎通を図ることですが、意思疎通のために会話を行うと争いが引き起こされる場合があります。

それは、意識・無意識に関係なく『争い』が人の本質だと語られてきた弊害です。さらに、個人の尊重という観念が歪められ、それの解決方法が、無関心、もしくは排除することであると教え込まれています。

価値観とは、自分の中にあるものです。それは善と言われるものであったり、悪と言われるものであったり。善と悪がブレンドされて、その位置が流動的であったり。固定化されることはありませんが、とにかく価値観は人により様々です。

善は悪が嫌いです。本質的に受け付けられない。悪は善が嫌いです。これも本質的に無理な話です。しかし、善は悪なしではありえず、悪は善なしではありえません。お互いがお互いを補完して、始めて成り立つ観念です。

どのような物事であっても、それを極めれば極めるほど、真実というのは明らかになってきます。方向性に関係なく善だろうと悪だろうと、極めれば真実が見えてきます。

悪を排除すれば、善は成り立ちません。
善を排除すれば、悪は成り立ちません。
善悪は共生しなければなりません。

本質的に違うものが共生を目指す場合、己が信じるものとは違う価値基準が必要です。それに『普遍的な根拠をもととする観念』と呼称を与えます。

『普遍的な根拠をもととする観念』を明らかに並べていくことによって、それを自分自身が理解することによって、気付くのです。

これは一見不可能のように感じますが、善悪の両方を持っている『人』は、すでに自分の中で共生を実現させています。

しかし、両方を持っている人同士は、まだ共生を実現できていません。我々が目指すべき課題はここです。

自分の問題解決方法を分析することにより、つまり内面を見つめることにより、現実という外部問題の解決への糸口が、概念として見つかるかもしれません。

意思疎通は、必ずしも『実際に会う』という行為をしなくても実現できるはずです。

意思疎通は、自分と相手が何らかのルールに従って明確になっていればよいだけです。

言行一致が体現者

何らかの思想のもと、何らかの物事を成し遂げようとした場合、往々にしてその目標だけをみる。

もうまっすぐに、それだけをみる。

それは純粋な想いの結晶で、何も悪いことでないけれど、目標を達成する手段を選ばずなんてしていると、視野が狭くなる傾向が強い。

端的にいえば、目標だけをみるものだから、そこへ辿り着く過程の考察を疎かにし、その選択の重要性を見失う。

何が関係しているのか。

別に、哲学的な、とんち的な、そういったややこしい話ではない。

目指すべき目標、それは未来のあるべき姿で、それは現在の延長線上であり、現在とは今この瞬間。

今この瞬間と言葉で書くとなんだか難しそうな印象だが、要するに生きるということで。

生を活かす常なる日々。日常生活。日常生活の積み重ねが未来を作り出す。

簡単な推論。単純な理屈。

つまり、日常生活を疎かにしては、目標へ辿り着くことなどできない。

思想に沿った目標。思想に沿った言葉。思想に沿った行動。思想に沿った衣食住。

思想とは、心に思い浮かべる意志のことで。意志とは、方向性を確定する根源で。

意志を明確にし、思想を精査し、言動を自戒し、それが現在を形作る。

そうやって創造していく今の連続が、目標とする未来へと繋がる。

意志に繋がる言動が、言動に繋がる考察が、言行一致の体現者が、目標を達成した未来を創造する。

なぜ知識を求めるのか

自分が知り得た知識のみが最高で、そのほかはすべて愚かなことであるという考えは、注意深く考察すると、その考え自体に矛盾が含まれていることに気が付く。

知識は、その時点で完結するものではなく、継続された時間の中でその正確性が強化される。
今が最高ではなく、常に未完成だ。
意識してか無意識か、その根源は別にして、その未完成をできるだけ完成に近づけたいと感じるから、より一層の知識を求める。

その継続は当たり前のサイクルだが、完成したと断じたその瞬間から、継続をやめたその瞬間から劣化が始まる。

知識の種類や継続方法は様々だ。
例えば、宗教なども知識にあてはまるかもしれない。
もちろん、チャネリングメッセージもだ。

知識を求める人々の間でしばしば摩擦が起こる。
平和を願うというような根本的な思想は極めて相似しているのに、それぞれで学んだ知識が唯一無二の真実だとする論争が生まれる。
それは白熱することはあっても終息することはなく、そこに答えなどない。

我々は誰かを負かすために知識を求めているわけではない。
他ならぬ自分を納得させるためだけに知識を求めているはずだ。

力で排除すること

ある力関係を有する集団において、均衡が保たれている場合は、平行線が続きます。
それは一見、平和のように見えますし、状態においては平和なのかもしれません。

しかし、それに満足せず、その均衡を破ろうとするものがあらわれたとします。

その場合、なぜか、力で相手を負かそうとするわけです。

相手を力で打ち倒したとき、その次に起こるのは、それ以上の力で打ち倒されるということです。
力の強き者が勝利を得続けますが、いずれにせよ、それは最初に思い描いた理想郷とは程遠いところにいます。

歴史と言われる過去を紐解くまでもなく、現代の生活においてさえ、その現象は見られるはずです。
そして、それは無限の連鎖を招くだけで、なぜか、どうやっても終わらせることが出来ません。

それはひとつの仮説を作り出します。
力で相手を排除することが問題を解決する方法ではない、ということを。

問題と原因と結果

何か問題が起こった場合、その原因を探る。
探り当てた原因を解決すれば、その結果であった問題は存在できなくなる。
因果という観点からも、このアプローチは正しいと考える。

それは、
『何らかの問題を認識』して、
『問題の本質とは何か』ということを考えて、
『本質が指し示す原因は何か』という経路を経て、
『原因の本質とは何か』という考察が為されたあと、
『原因は何がし』という最終的な原因に行き当たる。

こういうステップをひとつひとつ検証することによって、問題の本質と原因の本質を探し当てることが出来て、根本的な解決へ繋がるわけです。

例えば、どこかのステップで間違えを犯したら『原因は何がし』という部分は見当違いなものを指すこととなり、問題が解決されることはない。
それは問題が解決しないことによって何かを見誤った、という認識が得られるので、その場合は最初のステップに戻って再考をすれば、正しい解決が得られます。

では、もし、一番最初のステップに、

『誰かの都合で問題が作られる』

を加えたらどうなるでしょう。

たとえどんなに正確な本質を見つけたとしても後のステップは、すべてが予定調和で進められ、最終的には誰かの都合を満足させるだけです。
そして、本当の問題は、存在すら気付かずにそのままとなる。

我々が日々で抱える問題と語るものは、それは本当に真なる問題だろうか。
本当は誰かの都合による問題ではなかろうか。

その問題とは、誰かがそう言っていたから、という理由だけでそう思ってはいないだろうか。

在るがままで根源的にひとつ

まず自分の心身を想像してみてください。

自分にとって根源的にひとつといえるものは何でしょうか。

それは目に見えている体でしょうか。
自由に動かせてどこにでも行けて、鍛えれば素晴らしい能力も得られます。

体の原動力はなんでしょうか。
それは手ですか、足ですか、心臓ですか、脳ですか。

脳の原動力はなんでしょうか。
それは血液ですか、シナプスですか、シグナルですか。

シグナルの原動力はなんでしょうか。
どこかに行きたい、何かをしたいという欲求はどこから生まれているのでしょうか。

古人はその行き着く先の原動力を心や魂といった呼称で観念付けました。
体の各所における根源的にひとつのものが魂であるといえます。
自分にとって魂が根源だと定義できるかもしれません。
そして根源である魂は、体の各所と同一だともいえます。

魂、あなたには見えますか。
それは、確実にあなたであるはずなのに、あなたには見えますか。

我々はすでに、体の内に根源を内包しているのです。
見えなくても感じることができるはずです。

そしてこの根源を生み出したのは、親といわれる人です。
我々は、一般的には親から生まれます。

人が人を生む。魂が魂を生む。

つまり、根源が根源と出会って調和を得ることで、新しい根源を生み出せるということです。

この理屈を逆に辿っていくと、どこかで本当の根源に行き当たるはずです。

心身がここに在るという事実だけでも、すでに根源的にひとつという観念を実証しています。